永井荷風とソープランドについて | 川崎-堀之内・南町ソープランド│クチコミランキング

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永井荷風とソープランドについて

川崎堀之内のソープランドも長い歴史の中でいくつもの過渡期を迎えてきました。ソープランドというお店が届け出制という事もあり、お店がこれ以上増えるのは現状の法規の中では難しいのが現状です。

遊郭・赤線・ソープランドと日本の性文化の歴史は紡がれてきましたが、そんな歴史の中でも偉大な文豪がソープランドの前身である遊郭にハマり、奇想天外の人生を送った事をご存知でしょうか。
その文豪の名前は「永井荷風」1952年には文化勲章も受賞をしており、代表作はあめりか物語や腕くらべ、断腸亭日乗などが有名ですね。そんな文豪の人生はまるで『事実は小説よりも奇なり』を地で行っています。

語弊があるかもしれませんが、文豪としては非常に功績のある方で立派です。しかし一男性としてはゲスの一言。世間のお父さんがソープランドで遊ぶ事なんてかわいらしいくらい。
お父上は内務省のエリート官僚で、昔の日本では家柄が重視された事もあり、幼少期から長男として家督を継ぐべく、英才教育を受けていました。フランスやアメリカで遊学したあと、1908年29歳の時に「あめりか物語」をそして1909年には「ふらんす物語」を発表。1909年には「ふらんす物語」と「歓楽」は風俗壊乱として発売禁止になりました。これで一気に注目を集めて、1910年に森鴎外と上田敏の推薦で慶応大学の教授となります。内容はフランス語、フランス文学の評論が主だったようですが、ウイットに富んだ話で大変な人気があったそうです。しかしその陰で芸妓とも交際を続けており、家柄を重視する当時の日本では周囲との相当の軋轢があった様です。
しかし1912年についに荷風も身を固めます。商屋の娘さんと結婚をするのですが、1913年に父が没すると、早々に前の年に結婚した奥様と離縁。そして1914年には新橋の芸妓・八重次と入籍するものの、翌年には別居して離縁。もう何とも言い難い人生を送っていますね。感情の赴くままというかなんというか(笑)

そしてその後には入れあげていた麹町の芸者・歌へのプレゼントとして、自らが遊郭のオーナーになってしまうのです。そして部屋にのぞき穴をあけて客と芸者の情事をそっと眺めていたと言われています。その禁断の趣味もあってか周りの人には一向に理解をされず、晩年は非常に寂しい人生を送る事になってしまったようです。常に全財産をボストンバックに入れて、歩くような有様で、誰も信じられなくなったいたのでしょう。ただその本人の振る舞いにも大きな原因はあったでしょう。

日本のソープランドの前身とも言える、遊郭では時としてそんな人間ドラマが生まれていた事も思うと、どんな時も男女の出会いはドラマの始まりの一つとなりうるかもしれませんね。